2014年02月08日(土曜日)

佐村河内守ショック - それでも音楽に罪はない

 2月5日以後、クラシック界は佐村河内守氏の話題で持ちきりだ。交響曲第1番『HIROSHIMA』の製作過程がNHKスペシャルのドキュメンタリーとして放映され、それ以後一躍クラシック界の寵児としてもてはやされていた佐村河内氏。その『HIROSHIMA』や、ソチ五輪で高橋大輔選手が使用する楽曲『ヴァイオリンのためのソナチネ』を含む氏の名義の曲が、18年間ずっとゴーストライターによって書かれていたという事実が発覚したのだ。そのゴーストライターは新垣隆氏。新垣氏の会見で、佐村河内氏は楽譜も読めず、ピアノの腕もほとんど弾けないといっていい程度、『HIROSHIMA』も元々広島のために書かれた曲というわけでなく、あまつさえ全聾というのも偽りではないかなど、様々な黒い話が湧いてきた。全聾の苦悩の作曲家と、広島や東日本大震災の被災地といった苦難の歴史を結び付けた巨大な物語で売り込まれ、記録的なセールスを記録した音楽の、その物語部分がまったくの虚構だったわけだ。まさにスキャンダル。

 ところで、昨年の2013年8月13日、自分はこの佐村河内守氏の交響曲第1番『HIROSHIMA』をりゅーとぴあで実演で聴いている。演奏はもちろん大友直人指揮 東京交響楽団。この曲はこのちょっと前から大きな話題になっていて、自分はあまり話題になりすぎると引くタイプなので、少し距離を置いて遠巻きに眺めていた。曲を聴いてみることもなかったし、Nスペは録画はしたものの見ていなかった(これを書いている現時点でもまだ見ていない)。そんな調子だったのだけど、話題になっている現代の作品がこの新潟で演奏されるなら一つ聴いてみようか、コンテンポラリーな空気を生で感じてみようかと、このコンサートに行ってみることにしたのだ。それもどうせここまで聴いてこなかったのだから、いっそ世界初演を聴くつもりで聴いてみようと、それから一切の予習はなし、当日も事前にパンフなどは読まずに、できるだけまっさらな状態で臨むことにした。当日の感想はTwitterに連投してあるので引いてこよう。

これから始まる交響曲第1番『HIROSHIMA』のコンサート、急遽作曲者である佐村河内守氏も立ち会われることになったとのことで、新潟の観客に向けてメッセージが出されていた。作曲者が同じ空間にいるという緊張感は素敵だ。 https://twitter.com/ayumnote/status/367144265429692416/photo/1

佐村河内守 交響曲第1番『HIROSHIMA』新潟公演終演。りゅーとぴあであそこまで盛大なスタンディング・オベーションは初めて見た。ざっと目勘でも軽く観客の半分以上が立ち上がっての盛大な拍手。新潟でこれほどのスタンディング・オベーションが起きるのはちょっとした事件だと思う。

佐村河内守 交響曲第1番『HIROSHIMA』、これまでCDでもTVでも聴いたことがなかったので、本日の新潟公演でいきなりの実演。聴いてみた印象はとにかく重苦しい曲。最初から、最後クライマックスで長調に転調する時まで、ほぼ絶え間なくコントラバスが呪詛のように低音の持続音を奏でる。

この低音の不吉な持続音が、広島の苦しみ、困難を象徴的に表しているのだろう。この絶え間ない重苦しさが、常に音楽の裏で耳につく。実に80分のうち70分くらい。後半は「もうやめてくれ」と感じるほどに。もしかしたらこの持続音は、佐村河内守氏自身が苦しむ耳鳴りとも重ね合わされているのか。

そのバッソ・オスティナートどころじゃない持続音の印象と、もう一つ強く心に残るのが、各楽章で一回ずつ鳴らされる鐘の音。佐村河内守氏によれば「同じシの鐘の音が、まわりの音によって」各楽章ごとに運命の鐘に、絶望の鐘に、そして希望の鐘に、聞こえるという、その鐘はやはりとても印象的に響く。

そして最終楽章、ようやく重苦しい持続低音から解放され、安らぎや希望の優しい旋律を弦が奏で始める。その後対位法的な複雑な絡みを経て、最後壮大なクライマックスへ。執拗に苦しみが続いたその分だけ安らぎと希望の意味は大きい。演奏終了と同時に沸き起こる大きな拍手喝采。凄い盛り上がりだった。

終演後、作曲者である佐村河内守氏が招かれてステージに上がると、新潟では実に珍しいスタンディング・オベーション。それも数人程度ならたまに見るが、実に観客の半数以上が立ち上がっての讃辞。新潟県民は恥ずかしがりなのか、普段スタンディング・オベーションなんてほとんど起きないのに。

佐村河内守氏は、新潟での交響曲第1番『HIROSHIMA』の公演に合わせて、当初多忙と体調不良で来場を諦めていたが、それでも何とか直前の8月9日に急遽来場を決めてくれたという。開演5分前、客席に現れた氏を、観客は拍手で迎えた。作曲者と同じ空間を共有できる幸せは現代音楽ならではだ。

佐村河内守作曲、交響曲第1番『HIROSHIMA』。正直聴くのは楽じゃなかった。あまりに重苦しく、随所に現れる美しい旋律さえその重力に引き落とされ、まるで苦悩を追体験させられるよう。でも、だからこそ最後の救いが希望に満ちて響く。作曲者と空間を共有できたことも含め、よい体験でした。

 上記のように佐村河内守氏も来場した中、自分を含む新潟の聴衆はいつになく熱気をもって、この公演を迎えた。新潟で見かけるのは本当に珍しい大勢のスタンディングオベーション。座っていた客席から立ち上がって、振り返って何度もお辞儀をしていたあの佐村河内守氏が作曲者本人であると、当時は疑ってもみなかったのだけど。結果としてこの「作曲者とも空間を共有したコンテンポラリーな音楽の現場」という自分の高揚が今回の騒動で裏切られてしまったは正直寂しい。これだけ連続でツイートしていることからもわかるように音楽自体には感銘を受けたのもまた事実だったし、作曲者と同じ空間でコンテンポラリーな音楽を堪能したという体験に高揚感を覚えていたのも事実だから。予習は控えていたとはいえ、自分の感想にもかなり事前情報によるバイアスがかかっているのもまた正直否めない感はあるけれど。

 ここで今回の騒動に関する自分のスタンスを明確にしておくと、佐村河内氏が行ったことは明確に詐欺であり、その音楽を受容した人達や広島の人達、そして聾の人達に対する、まさに背信という言葉通りの所業だと思っている。偽りで固められた物語で音楽を売り込む、だけならまだ許容できなくもないが、広島や障害者といった特定の層が望むと望まざるとに関わらず持っている物語まで巻き込んで、それらに対して信を偽ったことは許すに値しない。だから佐村河内氏や、ゴーストライターである新垣氏が、仮に刑事罰の対象となることがあるのであればそれはそれで仕方がないことだと思う。それだけのことをしたのだ。人が犯した罪はどんな形であれ人の罪だ。

 ただ、この歪んだ共作関係の中で生まれた音楽達。それらの音楽には罪はない。だからこの騒動に関して色々な反応を追っていて、その中に「こんな詐欺師の作った音楽なんて聴く価値もない」みたいな意見を見かけると悲しくなる。どんな経緯で作られたものでも、音楽は音楽なのだから。それこそ人殺しの曲だって、恩人の妻を寝取るような破天荒な男の曲だって、少年に性的暴行を加えるような演奏家だって、時が経った今では普通に聴かれている。音楽自体に時を超える価値があれば。そこだけは明確に訴えたい。この点に関しては、『森下唯オフィシャルサイト » より正しい物語を得た音楽はより幸せである 〜佐村河内守(新垣隆)騒動について〜』という記事が自分以上に的を射た言葉で語ってくれている。この記事から引用させていただくと、

新垣氏のような作曲技術に長けた人が自発的にあのようなタイプの作品を書くことは不可能だった。なぜロマン派〜ペンデレツキ風、みたいな書法の制約を自ら課すのか、という問いに答えようがないからだ。自分はもっと面白いことができるはずなのに。しかし、発注書があれば話は別だ。なぜそんな制約を課すのかって? そういう発注だからだ! わかりやすい。書法のことを置いておいても、現代社会において80分の大交響曲が生まれるというのはまずありえない。交響曲に必要とされる精緻なスコアを書くための知性と、交響曲を書こうという誇大妄想的な動機がひとりの人間に同居するというのは相当に考え難い状態だからだ。

佐村河内氏の誇大妄想的なアイディアを新垣氏が形にするという、この特異な状況下でしか生まれ得なかったあれら一連の楽曲とその魅力を、「全聾の作曲家が轟音の中で」云々よりよほど真実に近いだろうこの(小説より奇なる)物語とともに味わい、よりよく理解し、より正しく評価すること。それが、取りうる最も適切な態度ではないかと思う。

 現代音楽では既存の書法で書かれた音楽は手垢のついた無価値なものとされるので、基本的にはそういった書法の制約を課した音楽というのは書かれない。多くの音楽家達が『HIROSHIMA』を稚拙と表現したのはそれが過去の書法の焼き直しでできていたからだ。けれど、現代音楽的な自由な書法で書かれた音楽は、往々にして一般の聴衆には馴染まないことが多い。というかほとんどだ。だから現代の最高峰の音楽的才能の持ち主が書いた曲を、一般の聴衆が耳にするという機会はほとんどない。その奇跡が、今回の佐村河内氏と新垣氏の歪んだ共作では生まれたわけだ。それは現代音楽から見れば言葉は悪いが妾の子かもしれないが、それでも一般のクラシックファンの中にも、例えばベートーヴェンやマーラーみたいに聴ける新曲を聴いてみたいなと思っていた人はいたはずで、佐村河内守名義の曲の数々は、そんな欲求にもある程度リーチしていたと思う。そして何より、新たな書法を開発しないといけないという現代音楽の定義からすれば古典的な手法は無価値かもしれないが、それが一定の層にリーチする以上、音楽とすればそれは無価値ではない。その価値を、正しく評価するべきだと思う。

 中にはこの『HIROSHIMA』始め佐村河内守名義の音楽は、物語とともに売りだされたのだからその物語が崩壊した今、音楽なんて聴く価値もないと言う人もいる。でも、それもまた寂しいと思う。確かに物語は崩壊したが、音楽は残る。真の作曲者である新垣氏は、それこそこの虚構の物語とは関係なく音楽を書いていたわけで、そこから生まれた音楽は、少なくとも楽しめるかどうか天秤に乗せてみる価値はあると思うのだ。そして確かに、これはいい曲だと自分は感じる曲がいくつもある。逆に物語のマイナスイメージが強く作用する今こそ、音楽の力が逆に試される、感じられる時なのかもしれない。

 佐村河内守名義の曲を過去にCDや実演で聴いて感動したという人で、今はもう感動できなくなってしまったという人も一定数いることだろう。少し悲しいことではあるけれど、でもそれは仕方ないことなのかなと思う。人が音楽や、あるいは他の芸術なり他の何かに感動するということは、その時の自分の心象風景の中にその対象と共鳴する何かがあったということだ。聴いた当時心の中にあった物語が実は虚偽だったと知った時、心象風景のその共鳴していた部分に変化が起きてしまえばもう感動はできないのだから。そういう人達は音楽というよりは物語のBGMとしての音楽を楽しんでいたのだろうと思うけれど、それはそれで否定はできない。音楽をどう受容し、楽しむかは人それぞれだ。

 だからせめて、「自分はクラシック音楽が好きだよ」と自認する人くらいは、改めて佐村河内守名義で作られた新垣隆氏の音楽を聴いてみてほしいのだ。自分は物語とは関係なく、音楽が好きなんだよという人達に。『HIROSHIMA』の実演に接した時の自分がそうだったように、初演のつもりでとか聴いても物語は完全に消えてはくれないし、そこには既に今回の騒動という新しい物語が付与されているわけで、音楽自体を聴こうと言ってもあまり説得力はないのかもしれない。でもせめて、「詐欺師の音楽は聴くだけ無駄」ではなく、「現代音楽として稚拙で無価値」と切り捨てるのでなく、「どんなものかちょっと聴いてみよう」くらいの気持ちで聴いてほしいと思う。はっきり言おう。自分は実演で心動かされた過去の自分を擁護しているのかもしれない。でも、やっぱりいい曲はあると思う。『ヴァイオリンのためのソナチネ』とか、確かに書法的斬新さはないけれど、素晴らしい曲だと思う。今回の騒動で仮に人が抹殺されることがあったとしても、音楽まで抹殺しないでほしい。音楽に、罪はないのだから。

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