Profile about ayum

ayum

近影
Basic Data
  1. 名前 : 小林 歩(Ayumu Kobayashi)
  2. 生年月日 : 1977年10月26日 蠍座
  3. 血液型 : A型
  4. 出身地 : 新潟県南区(旧白根市)
  5. 出身高校 : 新潟県立三条高校
  6. 出身大学 : 立命館大学文学部人文総合科学インスティテュート『人間と情報』領域
  7. 職業 : 農業機械屋(オープン系Webシステム技術者から転身)
  8. 座右の銘 : 踊らされるな自ら踊れ

※歌とギターをこよなく愛する"静かなる危険思想者"。取り扱いには十分ご注意ください。


来歴 〜人生の略図〜

 新潟のとある病院に生まれ、持病の喘息の療養のため(?)新潟市の小学校から田舎の新飯田と呼ばれる地域の学校に転校。病弱ながらも精神的に手の付けられない人間として小学校、反抗期真っ盛りの中学時代を過ごす。中2の冬より念願のバンド活動を開始。変声期をまだ迎えていない女まさりのハイトーンでVo.をつとめた。ちなみにやっていたのはLINDBERGとUNICORN。この頃より永遠のライフワークとなるギターも弾き始めた。ただし最初はフォークギターでベースのパートを弾くという今考えればわけのわからない不思議なことをやっていた気もする。

 高校に入るとまずはまったのはクイズと賭けUNO、そして俗に「デン」と呼ばれる新潟地方特有のギャンブル用トランプゲーム(←さらに新潟の中でも地方ルール多数)だった(笑)。要するに賭博にいきなり手を出したのだ。休み時間や自習の時間の教室の片隅で4、5人の仲間と共に

「リーーーチィッッッ!!!」

 と大きな声で人さし指を突き立てながら叫んでクラスの皆の白い視線を浴びていたものだ。今となっては懐かしい思い出である。

 この年、当時ムーブメントの最盛期を迎えていた高校生クイズに参加。が、見事に1問目の◯×クイズで玉砕(苦笑)。のこのこと家路についた。

 高校2年になってから新しい仲間(中学時代からの相棒も約一名含む)と再びバンド活動を再開。今度はBOOWY(あの空集合マークが出ない!)と氷室をやっていた。この頃はバンドのメンバーと本当に本能の趣くまま生きていた頃で、バカも無茶もかなりしてやたらに毎日が楽しかった記憶がある。

 高校3年大学受験を控え、表面上は勉強をそこそこしているように見せかけてそれなりに進学を意識していたかのように思わせていたが、その実本音はまったく実感なし。家ではひたすらギターを弾いて曲を作ったり、ワープロに向かって文章を書いてたりばかりしていた。ただ、高校の勉強ははっきり言って嫌いだったが、自分の興味のある分野、たとえばユング心理学や哲学、薬学、・・・と言うかむしろ毒学、については労を惜しまずいくつもの文献を片端から読破していっていた。しかし、そんなもんは当然受験には出ない。そら受けた大学全部落ちもするわ。

 そしていやに規則正しい生活を送っていた浪人生活が始まる。毎朝6時に起床、始発の高速バスで新潟市にある代々木ゼミナールまで通学。夜は絶対12時前には就寝という、今から考えると信じられないくらい健康的な生活をしていた。しかし浪人の1年間終始一貫して“夕方7時以降は勉強のために鉛筆は持たん!”などとわけのわからんポリシーを押し通した。夜は相変わらずギターと文章作成の日々。それでも今こうして無事大学生活を送ることができたのだから、まぁよしとしましょう。

 無事大学に入学するも、入学当初右手首を骨折してギプス付きの生活を余儀なくされていたせいもあり最初の一ヶ月くらいは精神的に決して平穏だったわけではなく、「案外友達もできないなぁ」とか「大学って何をやるところなんだろう」とか思いながら鬱々とした日々を送っていた。GWに帰省した時などは高校時代の仲間に「あと少ししたらきっと生活も楽しくなるって」とか励まされたくらいだった。そしてその言葉通り、実家に眠っていたクラシックギターを持ち出しクラギタに入部してからは速攻BOX通いを始め、当時各学部の基本棟で配付されていたフリーペーパー『Toward evening』を見て「自分もここで書きたい」と思い、代表に連絡を取り同フリーペーパーに参加。忙しくも充実した日々が始まったわけである。その冬にはRainbow staffの採用面接も通り、1回生の時点でその後の大学生活の基礎は完成した。

 そして2回生になり、3月から務めているTowardの代表職や部活、そしてstaffと、とにかく動けと言わんばかりの日々が始まる。HTMLの知識を付けて、このHPの運営を開始したのも2回生の春から。最初は学内の非公開サーバで色々実験をしつつ作成していたが、7/7より現在のさくらインターネットのサーバに移転し正式に公開を開始。今に至るまで飽きっぽいところのある俺がよく続けているものである。秋には大分まで演奏旅行に行ったり執行部選挙があったりと部活が忙しくなり、その頃からTowardの活動から遠ざかってしまったのが心残りだ。秋にはRainbow staffの新人研修チーフとして色々計画とか練って忙しかったからねぇ・・・。

 3回になるとクラギタのC技としての看板を背負っての一年を送ることになる。演奏会の度に先々代から聞かされた「C技はうまくて当たり前」の言葉に重圧を感じて舞台に立つも、その緊張感の中まぁまぁよくやれたのではないかなと思っています。この頃は定演に向けて皆のテンションも半端じゃなく、週に1、2回(多けりゃもっと)は俺の家かシノさんの家で飲み会があるという実にデンジャラスな生活。夜11時にBOX追い出されるまでギターを弾き、その後に深夜の北白川MKボウルまで皆でチャリこいで遠征という無茶も何度か敢行されたという・・・。今にして思えばやり過ぎです(苦笑)。また、春には新入生のための初歩的情報リテラシーという授業の講師としてマイクを持って教壇に立っていたりもしました。

 そして大学最後の4回生。就職活動をJR他交通会社に大量の金を巻き上げられながらも早期に終わらせることができた俺は、そこからまたギター漬けの生活に戻っていきます。何やかんやで6月以降は確実に毎月一回はステージに立ってましたからね(笑)。夏合宿にもたっちーと車で岐阜まで乗り込み、途中で何回か死にかける(一つは俺の運転が原因であり、もう一つには誰かさんの邪眼が原因である)もどうにか合宿所に辿り着いたというようなこともありました。最後の定演、アランフェスでカデンツァの6連譜をシクったり、『ブエノスアイレスの夏』で4弦の調弦があまりにヤバイ状況で泣く泣く一曲弾き切ったりしたこともありました。京大の聖帝のソロコンサート、合奏団員として出演したことも、卒論を短期間で超ハイペースで仕上げ、締切間際の魔術師(イカサマ師)の神髄を発揮したこともありました。部の最後の演奏会、脅威の六時間耐久コンサートで観客の皆さんを苦しめたりもしました。喫茶アルハンブラでの最後の舞台、聖帝やマンゴレと最後の一緒に舞台に立つこともできました。総じてギターに浸かりきった学生生活、自分では満足のいくものだったと思っています。

 大学を卒業し、満を持して(?)上京。横浜・日吉に居を構え、渋谷の某企業にてオープン系Webシステム開発者として社会人生活を開始する。入社初日の夜に同期の仲間と上機嫌に飲みまくり、入社二日目からいきなり遅刻するという愚行(!)をしでかすも、うまい具合に遅刻がばれずに潜入成功、ギリギリ一杯印象に傷をつけずに研修に入った。「俺って案外プログラム向いてるかも?」といきなりな自惚れを得て始まった実務は、この業界の噂に違わぬデスマーチの連続。度重なる深夜残業や徹夜に何度も心を折られかけるも、なんとか踏みとどまってやっているうちに、気付いたら社内で技術的な定評が築かれていて最優秀新人賞(技術部門)をいただく。

 2006年に無事結婚し、新たに家庭という舞台に立つ。日吉の丘の上の新居に引っ越し、妻を迎えた引越の段ボールがなかなか片付かないながらも(苦笑)、二人での新たな生活が始まる。新婚だから少しは早く帰ろうという決意をするも、相変わらず仕事のハードさは変わりなく、深夜・早朝を問わない元々の仕事ぶりに更に日本全国出張三昧というオプションが加わり短い間であえなく断念。二人の時間がお世辞にも長いとは言えない中、長女が生まれ、その可愛さと赤子ならではの傍若無人に振り回される日々が始まる。

 2010年に約9年務めた会社を辞めて新潟に戻り、実家の農業機械屋を継ぐための修行を開始。これまでのソフトの世界から一気に汗と泥と油に塗れるハードの世界へ。久しぶりに歯を食いしばってまで力を出しながら仕事をしつつ、新しい業界やひいては経営というものについて学ぶ日々。ほどなく次女も誕生し、4人になった家族での新潟での生活が始まる。