2012年12月30日(日曜日)

記号にできないお金たち

 先日、実家から一つの小さな箱が見つかった。その中には、自分がかつてもらったお年玉なんかが、もらった袋のままで貯金されていて、両おじいちゃんやおじさんなんかが自分の名前を宛名に書いた自筆の文字は、それだけで懐かしい気分になった。一つ、「絶対使わないお金」などとわざわざ封筒に書いてあるものもあった。小さい頃の自分が書いた文字だろう。そう書くことで貯金の意思を固めていたのだろうか。紙幣から硬貨までごちゃごちゃ混ざった中には、聖徳太子の一万円札や、伊藤博文の千円札もあって、随分小さい頃から貯めていたんだなと、昔の自分に感心した。

 それでもそうした旧紙幣を合わせても、金額的には数万円程度。今の感覚でいうとそうべらぼうに大きい金額ではない(もちろん思いがけずその金額が手に入れば純粋に嬉しいけれど)。旧紙幣はもう珍しいから、現行紙幣に両替などはせずにそのまま取っておくとして、現行紙幣でも一万五千円。これはちょっとどうするか迷った。

 例えば臨時収入として何かを買うこともできる。もちろん銀行の貯蓄用の口座に入れてもいい。何年前の紙幣かはわからないけれど、現行の紙幣だ。今すぐ問題なく使える。でも、ちょっと考えて、結局その現行の紙幣もそのまままた箱に戻して、一緒にタンスに眠らせて置くことにした。この福澤諭吉の一万円札一枚と、新渡戸稲造の五千円札一枚。昔の自分が、当時としては一万五千円なんてとても大きな金額だったろうに、それを使うのをガマンして、いつかの何かのためにと貯金しておいたお金だ。今はもう新しく書かれた文字を見ることができなくなった、祖父達の手書きの文字が書かれた封筒に入れて。そこには、金額以上の何かがあるように感じた。

 銀行に入れてしまえば一万五千円はただの一万五千円。ただの数字となり、記号となる。そして小さい頃の自分が意を決して貯金していたお金とは気付かずに、何かの機会に消費されてしまうだろう。でも、手元にある紙幣は、ただの記号としての一万五千円ではなく、あくまで小さい頃の自分が箱にしまったままの、まるでタイムカプセルのようにやってきた一万五千円だ。何に使おうと思っていたのだろうか?それとも、特に使い道は決めずにただ貯金をしていたのだろうか?ともあれ、このお金を使う時は、何か当時の自分を納得させられるような理由が必要だと感じた。だから、その時まで、また眠らせておくことにした。どんな理由なら納得するかな?今なら一番は子供のために、なんて思うけど、当時の自分は間違いなくそんなこと考えてなかったろうしな。何しろ、自分が子供だったのだから(笑)。自分の好きなものでも買うか?それったってなぁ…。

 思いがけず時を超えてやってきた、タイムカプセルのような紙幣達。お金はお金として、小さかったころの自分に感謝しながら受け取りつつ、それは単純に記号としてのお金として使う気分になれず、結局またタイムカプセルのように眠っていく。このお金は、いつか使う日が来るのだろうか?来るとしたら、どんな理由で?願わくば、使ってしまいたいワクワクをグッとこらえて箱にしまった、あの日の自分を納得できるような使い方をしたい。寂しくなるような、使い方でなく。

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