2006年02月26日(日曜日)

どうももう一つなクラシック

 久し振りにCDで交響曲を聴いた。といっても聴いたのはモーツァルトの交響曲29番・25番・35番『ハフナー』。レーナード・バーンスタイン指揮のウィーンフィルだ。後のベートーベン以降の交響曲と比べるとどうしてもスケールの小さなモーツァルトのシンフォニー(それは楽器編成上という意味で)。これらの曲だけで交響曲、ひいてはオーケストラを語るのは間違っているのかもしれないが、ともかく筆を進めよう。

 このCDは学生時代、いつだったかとにかくBKCの演奏会に行く前、京都駅地下街ポルタのJEAUGIAで買ったCD。当時バーンスタインが好きだった私は、彼が指揮するモーツァルトのシンフォニー25番を見つけて、嬉しくなって買ったものだ。実際聴いてみて、やっぱりカッコいいと思った記憶がある。ところが、今聴くとこのCDが物足りない。シンフォニー25番が全然カッコよく聴こえない。それどころか、その演奏は"私が嫌いなクラシック"そのものだった。なるほど、価値観は変わる。

 気に入らない点は何かと言うと、正直それは一点だけだ。言葉で言うのは簡単だ。「リズムが生きてない」。以前にもこの日記でクラシックに対する苦言として提示していた、その一点だ。だが、それだけで音楽の魅力は激減する。モーツァルトというのはメロディーの天才だ。彼以後の作曲家が数小節を費やしてメロディーを構築して行くのに対し、彼はわずか数個の音だけであっという間に聴いているものの印象に残る旋律を作り出す。その最たる例が交響曲41番『ジュピター』の最終楽章のフーガの旋律であり、K.563の弦楽三重奏のためのディベルティメントの最終楽章であろう。ところが、そのモーツァルトの美しい旋律を聴かせるのにあまりに集中しすぎるためか、全然リズムが生きていない。ただ優雅に聴かせるだけで、リズムの変わり目に対する意識がまったく甘い。特にシンフォニー25番は拍子こそ変わらないものの、リズム的には全体を通して裏打ちの面白みを活かしながらテンポもほとんど変えずに、それでも大きく2つのリズムセクションに分かれて曲が進行する。そのリズムの境目や、あるいはリズムの聴かせ方が、音のエッジが生温くて正直リズムの輪郭がぼやけている。のんびり音が立ち上がって来るバイオリンやビオラといった弓で奏でられる弦楽器の特性上仕方ないという見方もあるが、そもそもクラシックでは響きの美しさに対する感覚に比べてリズムに対する意識が相当甘い。勇壮さを醸すのにオーケストラの音の厚みに頼っているようじゃ私に言わせればそもそも話にならない。生きたリズム感さえあれば人を引っ張る力の厚みなんて自然について来る。どうもやはり、今のクラシック音楽というのは音楽の魅力を伝えるという事に関して間違った方向に進化を続けて来たような気がしてならない。以前にも言った。旋律という音楽の美しい肢体は、リズムという血が通って初めて躍動する。クラシックの演奏家は、もう一度その事を考えてみてもいいのではないだろうか。

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