2001年02月18日

何もない未来へ - 第四章

 12月25日の朝11時。俺が発病して意識を失った直後くらいの計算になる。その頃生きていたとしても、その人間が今も生き続けている可能性は低い。ともあれ、俺は発信音に続いて再生されるメッセ−ジを待った。発信音の後1、2秒の沈黙があり、テ−プの走行音だけが聞こえていた。よくあるパターンだ。このままガサガサ、ガチャッと受話器を置く音が聞こえ、メッセージ終了との電子音が流れるのだ。俺はそのままテープに耳を傾けつつも、このまま何のメッセ−ジもなく切られてしまうのだろうなと思っていた。すると突然、テープの粗いホワイトノイズにかぶさるように、聞き覚えのある女の声が話し始めた。

 「もしもし、洋クン? 恭子です。え〜っと、変な病気流行ってるみたいで、洋クン大丈夫かなと思ってかけてみたんですけど・・・」

 そこで言葉が切れ、再びテ−プの走行音だけになった。恭子の声はいつもの明るいのに耳にキンキンしない程度の程よい高さのものではなく、少しト−ンの低いこもったような感じの声だった。普段の彼女の声を知っている人間としては、その変化に不吉なものを感じないわけにはいかなかった。彼女は多少の辛いことがあったとしてもそんな声で話す女ではないのだ。俺はそんなことを考えながら受話器の上をにらみ続けてメッセージが終わるのを待っていた。しかし10秒程待ってみても向こうが回線を切った音はしない。おや、と思っていると、かなり間を置いて続きのメッセージが入っていた。

「実はわたし、その病気に感染したみたいで、それで"ああ、死んじゃうんだ"って思ったら何か急に誰かの声が聞きたくなって、それで電話したんだけど、・・・いないみたいだから。・・・じゃ、バイバイ」

 そこで受話器は置かれ、メッセージは終了していた。間が空いて後半からの恭子の声は、泣くのを必死で堪えているようにつまりがちでぎこちなかった。多分、実際泣くのを堪えるのに必死だったのだろう。25日11時47分。その時発病していたなら今現在も生きている確率は0.001%以下だ。・・・やれやれだな。そう思いながら俺は深いため息をついた。ナツエは死んだ。おそらく信治も、明も。・・・そして恭子もか。そう思うと、心の中に何か虚しいものが押し寄せてきた。悲しみでもなく、寂しさでもなく、ただからっぽの喪失感。まるで本当に感情が麻痺してしまったかのようだ。今の俺の心に、本当に感情というものは存在するのだろうか?それを確かめたくなるくらいの空虚さに俺の心は支配されていた。しかしもしかしたらそれも幸いなのかもしれない。今本当に感情なんてものを強く感じたら、俺はその押し寄せる感情にきっと押しつぶされてしまうだろう。今心が麻痺しているように感じるのは、それを避けるための心の必死の防衛機制なのかもしれない。俺はそう自分を納得させることにした。

 とするとだ。とりあえず何をするべきだろうか。情報収拾はした。日本、あるいは世界がこの奇病の脅威に曝され、結果として日本はもうほとんど壊滅しているらしいことも知った。ならとりあえず。俺は思う。このまま部屋にいるよりは、まず外に出て実情をこの目で確かめた方がいいだろう。体は随分と回復している。さすがに無理はできないが、近所を散策するくらいなら支障はないだろう。そう判断して、俺はMacintoshの電源を落とし、念のためPHSを持っていつもの黒のカシミアのロングコートを着て部屋の外へと足を踏み出した。

「やれやれだな・・・」

 数日ぶりに部屋から外に出た俺がまず口にしたのはそんな台詞だった。こうなっていることが全く予想できていないわけでもなかったが、それでもその想像が改めて現実として目の前に突きつけられるとその衝撃は自分で思っていたよりもずっと強く、あまりに現実離れした光景は悲嘆や絶望といった感情さえ麻痺させてしまっていた。もっとも、感情が麻痺してしまったのはもはやずっと昔のことのようにも感じられたが。街は静かだった。あまりに静かだった。まず第一に、車が走るエンジン音が全然聞こえない。俺の下宿は大通りからは少し入ったところにあるが、それでも歩いて3分もすれば街のメインストリートに出る位置にあるので、日中なら普段は絶えずエンジン音は聞こえてくる。ところが今はそれがまったくない。それだけで街はこんなに静かになるのか、と俺は思った。目に移る視界もまた陰惨だ。下宿のマンションの正面口をでて道路に出ると、すぐ左側の電信柱には、それにすがりつくような格好のまま動かなくなっている俺と同年代と思われるの女性の姿があった。両腕で電信柱を抱え込み、頭の側面を電信柱に擦り付けるような格好で倒れ込んでいる。足元に溜まった血は既に乾いていて、周囲には蠅やら蛆やら、とにかく色々な虫がたかってきていた。そんな状態だったので、外見はよく判断できないのだが、何となく見たことがあるような女性だった。多分同じマンションの住人で、部屋に帰る途中に力尽きたのだろう。こうして道端で倒れたまま放置されているところから判断して、流行の末期、もう人がほとんどいなくなってしまったか、あるいは誰もがもう他人のことなどかまってられなくなった頃に発病したに違いない。彼女は自分の目の前でこれまでの日常がどんどん崩壊していくありさまを、一体どのような思いで眺めていたのだろう。ふとそんなことを思った。俺は数秒の間そのまま彼女を見つめていた。最後に倒れたままの姿勢で固まり、既に血は乾き、肉は腐り、虫に侵食されている若い女性の死体。不思議にグロテスクさは感じられなかった。ただし憐憫といった類いの感情も湧いてこなかった。ただ空虚だった。やはり俺の心は麻痺しているのだ。だがとりあえず、俺は少しの間目を閉じて、形だけでもと思い彼女に黙祷を捧げた。そして再び目を開けてから、グルリと周囲を見渡した。

 彼女と同じような死体はそこここに存在した。右を見れば下宿の駐車場に止まっている車の中に、道に出て少し歩けば別のマンションのベランダから身を乗り出したままの姿で朽ちているものもあり、さらに酷いのになると道の真ん中で倒れた上に、さらに車に轢かれたのだろう、まるで潰れたウシガエルのように内蔵を飛び散らしてアスファルトに擦り付けられている死体まであった。大通りに出ると、車を運転したまま発病し、病状が劇化したのだろう、ハンドルを握ったままレンタルビデオショップに突っ込んでいるものもあった。やれやれだな。もはやこの街には生命の、少なくとも人間の気配はまったく感じられなかった。ゴーストタウン、とでもいうのだろうか。俺は大通りを通りに沿って北に少し歩き、100m程行ったところでガソリンスタンドある角を東に入った。下宿に戻る方向だ。

 その時、左前の方で急に民家の植木が小刻みに激しく揺れた。人がいるのだろうか。俺はそっちの方に向かってまず視線を彷徨わせ、何も視界に入らなかったので「誰かいますか」と何度も呼んでみた。そして呼ぶ度にしばらく聞き耳を立てた。だが返事はない。もう風が木の葉を小さな音で揺らす音しか聞こえなかった。それでもしばらく木が揺れた辺りに注意を払っていると、今度は全然違うところ、視界の右隅の方を小さな動物が走り去っていくのが見えた。茶色の縞の猫だった。猫は素早く民家の塀と塀の間に隠れ、そこから用心深くこちらを覗き込んだ。猫とはいえ生き物が元気に動いている姿を見るのは多少なりとも俺を元気づけてくれた。猫にはこの病気は感染しないのだろうか、と、俺は思った。だが、猫が元気にしているということは、さっきの物音も猫か何かの小動物がたてたものだという可能性も強い。それは少なくとも人間がたてた物音である可能性よりは遥かに高いだろう。そう考え俺はそのままそこを歩き去ろうかと思った。念のためもう一回だけ誰かいないかと呼びかけてみる。しかしどんなに耳を澄ませていても、人の声は聞こえてこなかった。やはり人はいないのだろうか。そう悲嘆にくれかけた時、いきなり大きな電子音が鳴り出した。聞き慣れたメロディー。『Knockin' on Heaven's Door』、ボブ・ディランが生んだ名曲の一つで、後にガンズ・アンド・ローゼズがカバーした。俺のPHSの着信音だ。俺は慌ててコートのポケットからPHSを取り出そうとする。一体誰からだろう。あまりに焦っているので、PHSがポケットの中で引っかかりなかなか取り出せない。何よりも自分の他にも生きている人間がいるということが嬉しかった。やっと取り出したPHS。まだメロディーは鳴り続けている。出るより先に、まず急いでデゥプレイを見た。一体誰からだろう。そこには、信じられない名前が表示されていた。恭子からだった。彼女は生きていたのだ。同じ0.001%以下の強運に恵まれて。

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