1998年08月13日

街灯のない道

「あ、雨が降ってきた。」

 駅につくなり彼女はそう言った。夜の暗闇にまぎれてはいるが確かに空を厚くおおっているその雲は、まだささやかではあるがかなり大粒の雨を僕らの頭上に降らせていた。

「この雨の中を帰るのか・・・。」

 ため息混じりに彼女はそう言い、僕は

「う〜ん、まぁしょうがないんじゃないかな。」

 と応えた。彼女とは高校時代からの付き合いで、当時からよく一緒に飲んではお互い潰れた方を介抱しあって今までやってきた。下りる駅が一緒の僕と彼女は、そうしてよく一緒に帰っていたものだ。そんな僕らの間に、当然のごとく仲間内では何度か噂が立ったし、僕も彼女も取り立ててそれを気にするわけではなかったから一時期噂はかなりのところまで広がっていた。

「送っていくよ。雨がそんなにひどくならないうちに。」

 僕は空模様をちらとうかがって、バイクのキーをポケットから取り出しながらそう言った。このくらいの降りならまだバイクの二人乗りでも行けないことはない。しかしぐずぐずしていると雨脚はすぐに強まっていきそうな気配があった。

「大丈夫?」

 軽く僕の目を覗き込むようにして彼女は言った。

「多分ね。そんなに派手に飲んだわけでもないし。」
「そうじゃなくて雨。降りが激しくなってきたらどうするの?」
「そうだなぁ、・・・コンビニで雨宿りでもしたら?」

 僕は冗談めかしてそう言った。そうして彼女にポンとヘルメットを渡して、自分もヘルメットをかぶってからキーをバイクに差し込むと、

「早くしないと本当にヤバそうだぜ。」

 と言って彼女に目配せした。僕がそう言うと、彼女もそれ以上何も言わずにヘルメットをかぶってシートの後ろに座った。

「さ〜てと・・・、手を滑らすなよ。」

 雨で濡れるのはわかりきっていたことなので僕は彼女にそう注意を促す。彼女は「うん」と小さく返事をして、僕の体にそっと寄り添うようにして腕を回してきた。薄い夏服は、それを通して彼女の温もりと柔らかさをはっきりと僕の背中に感じさせてくれる。もう何度となくあったことではあったが、それでも彼女の温もりはいつも同じように僕に不思議な落ち着きと安堵感を与えてくれた。彼女の体温。

「さて、行こうか。」

 僕はそう言ってバイクを発進させた。駅前の信号をさっとくぐり抜けて、決して大きいとは言えないいつもの通りに出ると、僕はバイクのスピードを上げた。体にかかる彼女の重みを感じながら、僕は人気のない夜道を進んで行った。
大粒の雨が当たる。真夏とはいえ夜に降る雨はさすがに少々冷たい。やはりスピードを上げてくるとちょっとした雨でも馬鹿にはならないものだなと思った。

「雨は冷たくないか?」

night.gif 僕は声を張り上げ気味にして彼女に訊ねた。頭をぴったりと僕の背中につけた状態の彼女は、僕の言葉がよく聞こえなかったのか何なのか、返事の代わりにしっかりと腕に力を入れ直した。雨脚が少し強くなってきている。メットのゴーグルに雨が当たっては弾け、視界が不安定に遮られていた。ヤバいなぁ。僕は思った。これ以上強くなるようなら本当にどこかで一旦雨宿りした方がいいかも知れない。体の前面はもう完全に雨にやられてびしょびしょになってしまっていた。彼女の体がおおってくれている背中の方はほとんど濡れていなくて、彼女の体温が雨と風で冷えかけた僕の体を温めてくれていた。彼女の温もり。それはいつも僕を安心させてくれる。

 橋を下りたところにある信号で停まったときに、彼女が後ろから「大丈夫?」と声をかけてきた。心配そうにしている調子はあるのだが、多少のアルコールが回っているせいか声色にはどこか妙に楽天的に安心しきっているところがある。いい気なもんだね、と僕は少し呆れ調子で空を見上げ、それから彼女に向かって「これ以上降りが強くならなければまぁ大丈夫だろ」と言った。実際雨脚はこれ以上強くなる気配はなかった。少なくとも今のところは。

 信号が青に変わり、僕はバイクを発進させた。もうとっくに閉店してしまっているデパートのわきを抜け、高速道路の下を越えると、あとは彼女の家までほとんど一直線だった。この辺りまでくると道の両側もほとんど田んぼばかりになり、民家の灯もほとんどない。それでもまだ市街地からさほど離れているわけでもないので道には街灯があって夜道の通行をいくらかやりやすくしてくれている。とはいえ、もうこの時間になるとこの道を通る車もほとんどなく、雨音と自分のバイクのエンジン音、そして僕達が風を切る音だけが聞こえてくる唯一の音だった。大粒の雨は相変わらずの調子で淡々と降り続けている。特に強まる様子もないが、止む気配もない。僕は降りがこれ以上強くならないことを祈った。彼女は僕の背中に頭をぴたりとつけた格好でしがみついたまま、家に着くまで一言も喋らなかった。

「ウチに寄ってく?タオルくらい貸してあげるよ。」

 彼女はヘルメットを外しながらそう言った。僕はちょっと考えたが、

「う〜ん、いや、いいよ。もう夜遅いからね。オマエの親起こしちゃ悪いから。」

 と応えた。彼女はヘルメットを僕に渡して、静かに微笑みながら

「そう。」

 と言い、僕の目を見つめたまま一、二歩後ずさった。

「それじゃ、また。」

 僕はそう言ってメットをかぶり、彼女に向かって手を振った。

「うん、またね。」

 彼女はにこっと明るく笑って、僕の姿が見えなくなるまで家の前で見送るから、と言った。僕はバイクの向きを変えて、もう一回彼女に向かって手を振ると、一気にスピードを上げて家に向かって進み出した。

 彼女の家から僕の家は少しばかり距離があって、橋を2回渡らないといけない。そのうえその橋と橋の間ずっと通ることになる土手の道は、曲がりくねっている上に夜になるとろくに街灯もなく、灯のある建物もない真っ暗な道だった。夜中にそこを一人で通るのはあまりいい気持ちのするものではない。そのうえその日は雨も降っていた。やれやれだな、と僕は思った。やっぱり彼女の家に寄せてもらえばよかったかな。

 一本目の橋を渡ってその土手道を少し行った頃に、急に雨脚が強くなり出した。ただでさえ大粒だった雨がまるで滝の中にでもいるかのような凄い勢いで降り出したのだ。ゴーグルは叩き付ける雨に視界を遮られてほとんど役に立たない。このままバイクで進むのは危険すぎるなと思い、僕は仕方なしに一旦バイクを下りて雨宿りできる場所を探すことにした。しかしこの土手道にそんなところがあるはずもない。道はどこまで行っても河岸の雑草と樹木が密生しているばかりだった。対向車も後続車も見当たらない。灯といえば対岸の道に見えるわずかばかりの街灯のみ。対岸といっても広い川幅と草むらでかなり距離があいているので、本当に豆粒程のわずかな光が見えるだけだ。まいったな・・・。

 分厚いカーテンのように思える激しい雨は、ほんの1メートル先の空間からも僕の感覚を遮断していた。遠くで滲む街灯の灯。暗い夜道の中で雨というシェルターに閉じ込められ、僕はバイクを押して歩くより他にやることがなかった。激しい雨音。はるか遠くの対岸にしか見えない灯。打ちつける雨は晩秋や冬ほどの凍るような冷たさはないものの、それでも少しずつ僕の体温を奪っていった。さっきまで感じていた彼女の温もりももうない。そんな状況の中で、僕は世界から自分一人が取り残されてしまったような強烈な疎外感を感じていた。視覚も聴覚もほとんど当てにならない豪雨。奪われていく体温。僕は一人。そんな唐突に襲ってきた孤独感の中、僕はひたすらその感覚に目を向けないようにして歩き続けた。しかしその孤独感は無視しようとすればする程逆に僕の心に深く根を食い込ませてしまい離れていってくれない。奪われてしまった僕の体温。消えてしまった彼女の温もり。道を照らすものもなく、足を休める場所すらない。そんな真っ暗な街灯のない道。僕はそこを行かなくてはならない。僕はそこを進まなくてならない。一寸先が見えなくとも。目的地がまだ見えなくとも。灯は常に遠くに見える・・・。

 ふいに襲ってきた孤独感の中、しばらく僕は茫然自失気味に歩き続けていた。そうしてどのくらい経っただろうか、ふと我に帰って前を見ると、道のかなり先の方からこちらに近付いてくる光が見えた。この道の上で初めての対向車。その存在を認めたことで、僕の心に何故か幾許かの落ち着きが生まれた。気がつくとさっきより雨も随分弱くなっている。これならもうバイクに乗って行っても大丈夫そうだった。僕はヘルメットに付いている水滴を軽く叩いて払ってバイクのシートにまたがった。さっきの対向車が僕の目の前を通り過ぎる。後ろに過ぎ去っていくライトの光を眺めながら、僕はこの道について考えた。街灯のない道・・・。何かに似てるな、と。

 しばらくそんなことに思いを巡らせながらバイクを駆って、僕はやっと二つ目の橋のたもとに辿り着いた。この橋を渡ればもう僕の家まで3分とかからない。雨はいつの間にかもうほとんど気にならないくらいに弱まっていた。びしょびしょに濡れたシャツのせいで、やけに風が肌寒く感じる。僕は寝静まった家の前を通り過ぎ、離れの車庫にバイクを停めた。ヘルメットをしまってふうと一息ついたときに、僕の携帯の呼び出し音が鳴り始めた。何となくそうなることがわかっていたみたいで、僕はそれを突然だとも何とも思わなかった。自然と手が携帯に伸び、通話のボタンを押す。相手の確認はするまでもなかった。

「やあ、うん、今ついたところだよ。」
「雨、ひどかったでしょ?」
「・・・うん、まぁね。」

 街灯のない道。それは何に似ていたのだろうか・・・。

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