1999年12月29日

何もない未来へ

「やれやれだな・・・」

 数日ぶりに部屋から外に出た俺がまず口にしたのはそんな台詞だった。こうなっていることが全く予想できていないわけでもなかったが、それでもその想像が改めて現実として目の前に突きつけられるとその衝撃は自分で思っていたよりもずっと強く、あまりに現実離れした光景は悲嘆や絶望といった感情さえ麻痺させてしまっていた。1999年12月29日、本来騒がしいはずのミレニアムの終末を、静かすぎる程の静寂と陰鬱な灰色の空がおおっていた。誰もいない・・・。いつもと変わらないはずの町並みさえ暗く、重く、しかし静かに確実に全てを否定する虚無という言葉の支配下に置かれてしまっているように感じられた。実際その風景にいつもと違っていることがあるとすれば、それはただ道端や至る所の部屋の中、あるいはそれは適当に停められた自動車の中にまで存在する、普段気付かないようにしてはいるものの全ての人にいつかは平等に訪れる日常的な非日常がそこに溢れていることだけだというのに。

 数日前、異変は俺の周りの人間から起こり始めた。少なくともそれは俺の目に映る範囲の中では、ということだが。その時、俺は自分の部屋でいつもの3人の仲間と一緒にいつもよくするようなたわいもない話をしながらコンビニで買ってきた安い酒を飲んで時を過ごしていた。いつでもどこでもよく見られる風景だ。そしていつものように朝が来る頃には誰からともなく眠りにつき、目が覚めたら各々の家へ散っていく。そうなるはずだった。しかし、その日に限ってはそのようにはならなかった。何かが違っていた。まず、3人のうちの一人が急に気分が悪いと言い出した。俺達はソイツ、明というヤツだが、の体調がいつもに比べるとよくなくて多少酒の回りが早かったのだろうと思い、部屋の窓を少し開けて換気をしてぬる目のお茶を入れて渡してやった。「ありがとう」と言って湯飲みを受け取った明の手は微かに震えていて、両の白目の端から真っ赤に充血が始まっていた。顔色はどす黒く変わっていて、タートルネックのニットの襟口からわずかに見える首筋に黒っぽい斑点が浮き出ていた。何かがおかしいと思い、俺は明に「本当に大丈夫か」と聞いたのだが、明は「大丈夫。でも今日はもう帰ることにするから」と言ってふらふらと立ち上がった。俺達はマンションの下の駐車場まで明を送り、彼の乗った原チャが俺達の視界から消えるまで見守っていた。飲酒運転はいつものことだ。今さらそんなことは誰も気にはとめない。いつものように笑って手を振って別れ、部屋に戻る階段の途中で、俺達はどこか遠くの道で救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら走っていく音を聞いた。だがその時は誰もその音を特に不審にも思わなかった。救急車とはいえ、この深夜にあそこまで慌ただしく走るのも珍しいとは思ったが。

 部屋に戻った俺達は、明は本当に大丈夫かな等と話しつつ、いつの間にか一人ずつ眠りについていった。俺は一人最後まで起きていて、ぼんやりととりとめのない日常的な考え事、一体あの女の子は俺のことをどう思っているのかなとかいった具合のヤツだ、をしていたのだが、ふっと床で寝ている2人の内の一人、ナツエだが、に目をやった時に、ソイツの首筋にも明にあったのと同じような黒っぽい斑点が浮き出ていることに気付いた。瞬時に「伝染病?」という疑問が頭に浮かんだが、俺はその疑問を自分で否定した。まさかな。100%ありえない話ではないが、そう簡単にありえる話でもない。変にたくましい想像力で事を大袈裟に深刻化するよりは、常識で考えてまずありえないと思ったら細かいことは気にしないで過ごすのが一番簡単でいい。そしてそれは大体の場合において間違ってはいない。現実世界というものはスクリーンの中のようにはできていないのだ。

 しかし、この場合はその考えは間違っていた。次の日の朝、俺と信治は同じ部屋で寝ていたナツエの激しい咳で起こされた。起き抜けに、何が起きたのか状況もうまく把握できないまま唖然としてナツエの方を見ていると、彼女は四つん這いのまま苦しそうに部屋を横切っていき、ベランダに出る窓を開けてそこから上半身をベランダに出してうずくまった。その時朝日に照らされて映った彼女の体を見て気付いたのだが、昨晩ナツエの首筋にあった黒い斑点はもう両手足や顔まで広がっていた。おそらくもう全身に広がっていたのだろう。それはまるで醜悪な老人斑のようにも見え、俺はその斑点にゾクッとした生理的な嫌悪感を覚えた。それは生物が持っている命を喰らうものに対する本能的な勘だったのかもしれない。その正体不明の黒い斑点に全身を包まれ、数時間前とはまるで違った姿になってしまったナツエがベランダで咳こんでいる。俺達は何をしたらいいのかもわからなかった。ただかける言葉すら見つからずに、俺と信治はその場から動けないでいた。そして何度目の激しい咳の後だろうか、ナツエの口からどす黒い、重みのある液体が咳と一緒に飛び出てきた。ベチャッ、と不吉な音をたててその液体はベランダのコンクリにへばりつき、少しだけそこからじわりと広がった。そしてそのどす黒い液体の上に、ナツエの頭がどっと崩れ落ちていった。まるで映画のフィルムの途中のコマを飛ばして見せられたような感覚だった。さっきまで宙に浮いていたナツエの頭が、一瞬の後にできたばかりの自分の血溜まりを枕にでもするかのように地面に崩れ落ちているのだ。その二つの記憶の間にあるはずの過程が全く抜け落ちていた。彼女の頭がベランダのコンクリに触れた瞬間、ゴンッと鈍く冷たい音が辺りに響いたが、合図らしい合図はそれだけ。その情景にはどこか現実的なものが欠けている気がした。そして、その後ナツエはピクリとも動かなくなった。そのまま部屋の中に無言の空気が少しの間流れたが、俺はすぐ後に一瞬はっと我に返ってナツエの方に歩み寄っていった。そしてナツエの名前を呼びながら肩を軽く叩き、頭を抱きかかえようとしてナツエの額辺りに手をやる。が、その時俺の指先に奇妙な感覚が走った。触れたものの向こう側で、何かかずれるような感触。床に落として割った卵を、ぞうきんで拭く時のそれに似ていた。ズルッともヌルッともつかない不気味な感触を俺の手に残して、ナツエの頭は再びベランダのコンクリートに打ちつけられた。さっきよりいささか小さい音がまた辺りに響いた。ベランダにできた血溜まりが少しずつ広がっていく。ふとナツエの頭を支えようとした方の自分の手を見てみると、指先のところにはどんよりと濁った血に塗れた肉と皮の残骸がおぞましくへばりついていた。俺はそんな自分の手を見て思わず目を見開き、息を飲んだ。が、それ以上のアクションは取らなかった。取れなかったのかもしれない。とにかく、俺はその場で目の前に掲げた自分の手を眺めたまま凍りついていた。ナツエの額はベロンと皮が剥けた状態になって、ちょうどタバコの箱の大きさくらいの穴から残った肉が剥き出しになって曝け出されていた。そこからはまだ少しずつ血や透明な体液が滲み出ているようだった。

「死んだ、・・・のか?」

 信治が震えた声でそう聞いてきた。

「・・・わからんけど、多分・・・」

「そんな、何で突然・・・」

 そう言いかけて、信治は言葉を切った。ちらっと彼の方に目をやると、ひどく怯えたような目をして俺の方をじっと見つめている。彼は青ざめた表情で、かすれがすれに声を出しながら俺に向かってこう言った。

「洋・・・、オマエの首筋にもナツエと同じ斑点があるぞ・・・」

 俺の首筋にも・・・? その信治の言葉を聞いた時、俺はこれが伝染病の類いのものだと確信した。・・・それもかなり強力な感染力と殺傷能力を持った、だ。そしてこのナツエの死体、まぁまだ生きているかもしれないが風前の灯だろう、を見る限り、その死に様はかなり凄惨なものだ。やれやれだな。とはいえ、意外にそんなひどい病気に自分が侵されたのだということに対する恐怖のようなものは感じなかった。もう既にナツエの死に様のおかげで恐怖という概念自体が麻痺していたのかもしれない。俺は自分で予想していたよりも冷静に、ごく自然に、近い未来に自分に訪れることになるであろう死を受け入れていた。

「洋、俺には、俺にはその斑点は出てるか?」

 信治がそう聞いてきたので、俺は彼の首筋の方に目をやった。結果は敢えて語るまでもなかった。俺が黙って信治の目を見つめると、彼は俺の言いたいことを察したようでみるみる表情が変わっていった。ただでさえ青白く頼りなかった表情がどんどんと崩れていく。泣くかな、と俺が思ったその瞬間に、彼はわけのわからない叫び声を上げ、頭を抱えながら俺の部屋を飛び出していった。無理もない。目の前にナツエの死体を見ながら、自分も同じように死んでいくのだと暗に預言されたのだ。どっちかといえば俺のようにほとんど何も感じない方がどうかしているのだろう。まぁどっちにしても死んでしまえば同じなのかもしれないが、とにかく神経的には俺より信治の方がまともだなとは思った。遠くで救急車のサイレンが聞こえる。目の前の出来事に目を奪われていて気にとめなかったが、そういえば目をさました時からずっとサイレンの音は聞こえていた気がする。そういえば昨晩明を見送った時も救急車のサイレンの音は聞こえていた。とすると、どうやらこの得体の知れない感染症にかかっているのはどうやら俺達だけではないようだ。何でいきなりこんな病気が流行したのかはわからないが、とにかく少なくともこの街ではこの正体不明の奇病が流行っているのだと俺は判断した。問題は、これからどうするかだ。ナツエの病状の進行を見る限り、発病から死に至るまではわずか数時間といったところだろう。多少の個人差はあるにしても一日の猶予はないように思われた。とりあえず。俺は思った。状況があまりにもつかめない。何も知らないままただ苦しんで死んでいくのもどうかと思われたので、俺はとりあえずテレビをつけてみることにした。午前7時20分過ぎ。ニュースくらいやっているだろう。俺はひとまずナツエの死体には目をやらないようにして、部屋の中に入ってテレビのリモコンを探しスイッチを入れた。リモコンを押す手が微かに震えているのが自分でわかった。やれやれだな。

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