2008年10月13日(月曜日)

モオツァルトのかなしさは疾走する

 モーツァルトは生涯で交響曲を41曲作ったが、その内短調はをとるものは2つだけであるというのは有名な話である。第一楽章の優雅にメランコリックな旋律があまりに美しすぎる40番と、第一楽章のシンコペーションでグイグイと引っ張る入りから、随所に遊び的なリズムが鏤められた25番。前者は現代でもポピュラー音楽にまで引用されるほど有名だし、後者は映画『アマデウス』のオープニングに使われ一大センセーションを巻き起こした。我々の代の近辺のクラギタの人間にとってはきよが指揮を振るBKCクラギタの定演で、大合奏の一曲目として演奏された曲としても印象が強いことだろう。奇しくもこの二曲、ただ短調というだけでなく、どちらもト短調で書かれている。より有名な40番が「ト短調シンフォニー」と呼ばれることがあるのに対し、25番は「小ト短調」と呼ばれたりする。今日はこの「小ト短調」について少し話してみたい。

 このモーツァルトの交響曲25番、私自身は手元にそんなに多くのCDをそろえている訳ではないが、大きく分けて3つの演奏スタイルがあるように思う。ひとつはゆったりとしたテンポ、少なくとも聴いていて速いとは感じさせない程度のテンポを設定し、オーケストラの響きの美しさを前面に出して優雅にウィーン風に仕上げるもの。私の手持ちのCDの中ではバーンスタイン/ウィーンフィルケルテス/ウィーンフィルがこれに当たる。

 もう一つは昨今流行の、モーツァルトが生きた当時使用されていた楽器のコピーを使用し、オーケストラの編成や曲の解釈も可能な限り、わかっている限り曲が作られた当時に沿う形で演奏をしようという、いわゆる古楽派の演奏。概して現代のモダン楽器による演奏と比べると早めのテンポを設定し、非常にキビキビと、颯爽とした演奏であることが多い。私の手持ちの中ではこの曲は唯一一枚、コープマン/アムステルダム・バロック管弦楽団がこれに当たる。

 そして最後が、非常に速い、古楽派よりもさらに速いテンポを設定し、まさに疾風怒濤、もの凄い勢いで鬼気迫る演奏をするものだ。これは私の知る限り同時代を生きた二人の巨匠のみが取っている。ワルター/ウィーンフィルクレンペラー/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団だ。このあまりに大胆な曲の解釈、演奏者を恐怖に陥れかねないくらい極端に速いテンポ設定を行ってなおかつ美しく緻密な音楽を作り上げるという離れ業は、やはり彼らくらいの巨匠でないとなしえないのかもしれない。

 ざっといくつかのCDとおおまかな演奏スタイルを紹介したが、では私のお気に入りは何かと問われれば、この曲に関してはワルターとクレンペラーの一騎打ちだ。ちょっと他の演奏は入り込む余地がない。両者とも他の演奏者ではまったく追いつけない極端に速いテンポ設定ながら、音楽には一糸の乱れもなく実に豊かな世界を構築してみせる。これほどのテンポでも演奏に破綻を来さないのはさすがウィーンフィルにコンセルトヘボウ。世界屈指の超名門オーケストラはやはり並のオーケストラとは一味違う。

 興味深いのは、ワルターとクレンペラーという二人の指揮者が同様にこの速いテンポを取っているという点だ。両者とも、元来は速いテンポ設定を好む指揮者ではない。ワルターはゆったりと歌われる旋律が最大の魅力となる指揮者だし、クレンペラーも遅めにどっしりと構えた上で、荘厳堅牢な音楽を構築するのが常道だ。そんな二人が敢えてこの曲だけ他と違い極端に速いテンポを取る。このことには25番という曲の表現の本質に関わる何かがあるのかもしれない。同時代の巨匠二人は、この曲の中に何を見たのだろうか。この二人は25番から優雅さという要素を徹底排除した。そしてその先に残ったのは悲劇的なまでに疾走する悲しみだ。それは苦悩ですらないのかもしれない。

 それでもワルターには少なくとも曲の序盤にはその悲しみの中にまだ明るさが残っている。渦を巻く悲劇の中に、ほんの少しだが、明るい救いが垣間見える。だが曲が進んでいくに連れ、その僅かな明かりも押し流される。そこがまた悲しい。

 対してクレンペラーは、終始徹底して堅牢で厳しい音作りをする。ワルターよりまだ速い、極限のテンポの中で凄まじい集中力と緊張感が音楽を支配する。疾風怒濤、狂おしくも荘厳な悲壮感。クレンペラー特有の緊張感と巨大で荘厳な音楽が、走り抜ける悲しみの中で構築される圧倒的な支配力。最後まで演奏にも音色にも乱れを見せず、その悲しみを最終楽章まで共に走り抜けてみせるコンセルトヘボウの演奏もまた見事だ。最近の一番の愛聴盤となっている。

 とはいえワルター/ウィーンフィルもクレンペラー/コンセルトヘボウもその解釈の異質さからして万人にお薦めとはさすがに言いがたい。25番入門としてならむしろコープマンをお薦めしよう。古楽器による演奏は、弦楽器が金属弦でない分響きが透明で澄んでいて美しい。颯爽とした演奏もモーツァルトには非常によく合っている。値段も1,000円と手頃だし、何より入手しやすい。クレンペラー/コンセルトヘボウなんて実に入手しにくい(苦笑)。25番は既に持っていて、もう一枚という段で初めてワルター/ウィーンフィルやクレンペラー/コンセルトヘボウをお薦めしよう。特にワルター/ウィーンフィルは40番の伝説的名演とのカップリングなので実に魅力的だ。

 ところで、今回は小ト短調、25番の話をしたが、実はもう一つのト短調、40番にもこのような疾走する名演がある。それも演奏者はフルトヴェングラー/ウィーンフィルだ。この40番は初めて聴いたとき正直驚いた。古楽の40番も速いが、そんなもんじゃない。それこそあの優雅な悲哀に満ちた主旋律がめまぐるしいくらいに聴こえる。それでもその速さの中でフルトヴェングラー特有の縦にも横にも異常に大きなダイナミクスが展開されるもんだから、演奏者はもう必死だったことだろう。これもオケはウィーンフィル。やはりさすがだ。この演奏は一聴まるで重戦車が時速200kmで一般道を爆走しているような、恐怖感に近い印象を抱いたが、それでも速さに耳が慣れると実に劇的にダイナミックな音楽が展開されていることに気が付かされる辺りはさすがにフルトヴェングラー。ただ悪戯に速いテンポ設定を取っているわけではない。そもそもこの40番第一楽章、モーツァルトのテンポ指定はAllegro molto。フルトヴェングラーのテンポが、実は正解なのかもしれない。まぁでもやはり普段40番を聴きたい場合はワルター/コロンビア響が多い。一番、安心して聴ける。先に紹介したワルター/ウィーンフィルは演奏は実に素晴らしいのだが、少々音質面で苦しいところがあるので、普段聴きとしてはステレオでスタジオ録音されたコロンビア響が落ち着く。特に、この曲の瀟洒な悲しみの旋律では再生時のノイズは少ない方がありがたい。

 ところで余談ではあるがこのフルトヴェングラーの40番、同じ演奏が収録されているCDは他にも色々あるが、その中で何故これを選んだかと言えば、それはカップリングのハイドンの交響曲94番<<驚愕>>。これが実に素晴らしい名演だからだ。初めてハイドンの交響曲を心から素晴らしいと思った。つまりモーツァルトの40番だけでなく、CD一枚すべて丸ごとお薦めできるのがこれ、ということ。疾走する40番に興味のある方は是非。

 もう一つ余談として、この日記のタイトルは小林秀雄の『モーツァルト』の中に出てくる有名な一文。今日の日記を書く際に一度読み直してみようと思ったのだが、引っ越しの際実家にでも送ってしまったのか、何故か今手元にない。ので、これについて触れるのはやめておいた。ちなみにこの文は、こう続く。

 モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。

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