2007年04月28日(土曜日)

祖父の訃報

 大分経った。もう10日も前のことになる。朝、会社に出かける直前に、母から祖父が亡くなったとの連絡が入った。肺を患って17年にもなる祖父。一月前に入院した時から心の片隅で「もしや」とは思っていたものの、いざその報を受けた時には、どうしても実感がつかめずにいた。とりあえずその日一日で木金の仕事を引き継ぎ、休みをもらって、最終の新幹線で新潟に帰った。燕三条駅で迎えてくれた父の、いつになく重苦しい表情が妙に記憶に残っている。

 色々と、書こうかとも思った。ウチは3世代同居(一時期は4世代同居)で、小さい頃は結構おじいちゃん・おばあちゃんっ子だった私は思い出を書こうと思えば書き切れない。けれど、書くべきではないような気もした。それで、今まで書かずにいた。書くとしても、どう書こうか迷っていた。HPという場では、どうしてもある程度他人の目を意識せざるを得ない。この話をHPに書くことで、それを一つの美談のように仕上げようとしている自分がいないか。そう考えると、書くことができなくなった。ので、結局書かないことにした。この場では、このことに関してはこれで止める。とはいえ書くことか、あるいは弾くこと、歌うことでしか辛いことを乗り越えてこなかった私である。どこかで、書かなければきっと消化できはすまい。ので、どこかここではない、他人の目には触れない場所で書くことにする。記憶は変成する。風化するか、そうでなければ美化される。現在の心境は現在でしか書くことはできない。

 一点だけ。祖父は、私にとって非常に個人的な人だった。父からは明確に社会人としての顔も見えるが、祖父は純粋に個人的な存在であった。祖父は物心ついた頃から最後まで、あるいは今現時点でも、あくまで私の"おじいちゃん"だった。曾祖父・曾祖母の時はまだ小さかったこともあって正直実感が湧かなかったので、今回初めて身近で個人的な人を亡くしたように思う。寂しいとか、悲しいとか、辛いとか、そういった言葉ではどうもまだ実感がつかめない。ただ、もう動かない祖父の顔を見る度に涙が出た。火葬場に着いた際に、持病で手足が悪い祖母がもう遺影を持っているのが辛いからと、内孫の長男である私に遺影を持ってくれと言ってきた。その遺影が妙に重く感じられた。

 お通夜通しは祖父の8人の孫と叔母夫婦で行った。久し振りに、従兄弟達とゆっくりと語り合った。「せっかくおじいちゃんが集めてくれたんだから」と、葬儀の次の日に予定されている従兄弟の結婚式に、本来出席する予定ではなかった私を含む東京・京都の遠隔地に住む従兄弟も式だけ顔を出すことにした。もしかしたら、成人してから従兄弟達とこんなにじっくりと話をしたのは初めてだったかもしれない。普段はあまり意識していないものだが、こういう時には小さい頃から親しい親戚達のありがたみが身に染みた。

 夏に会った時、祖父は「そういえばしばらく歩とも将棋を指してないな」と言っていた。申し訳ないけれど、もうしばらく待ってください。いつか俺がそちらに行った時、ゆっくりと指しましょう。今なら飛車・角を抜いてもらわなくてもいい勝負ができるでしょう。昔は飛車・角を抜いたおじいちゃんと数時間に及ぶ対局をして、「名人戦らな」と笑っていたものだけれど。

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