2005年06月18日(土曜日)

 先々週のことになるけれど、蛍を見に行った。佐賀の、あの辺りは小城になるのだろうか、山奥という程深くはない山中の、比較的な大きな幹線道路からほんの少し入ったところでそんなに歩くこともなく、蛍の群生を見ることができた。

 山中の幹線道路は蛍を見にくる人で渋滞こそしていたものの、基本的には周囲にはただ川が流れるのみで街灯も必要最小限しかない、暗い田舎の道だ。そこから車を降りて川沿いに数分程上流に歩く。そう、ほんの数分だ。川の水が流れる音を左側に、走り去る車のエンジン音を遠い背後に、草を風が揺らす音をあらゆる方向に聞きながら、同じく蛍を見にきた人々の、周りの草木や夜の闇に比べればあまりに控えめで頼りない雑踏と共に、懐中電灯で足下を照らしながら歩いていった。

 蛍の光は静かだ。光を形容するのに音の表現を持ち出すのも妙なものだが、素直にそう思った。静かな光だと。暗闇の中に、まるで無から光が生まれてくるかのように青白い光がふうっと浮かんでくる。熱を感じさせず、かといって冷たさを感じさせるわけでもなく、暗闇を自由に音もなく移動しながら、静かな光が浮かび上がっては消えていく。星の光に似てるなと思った。数多の星が夜空に浮かぶように、数多の光が暗闇に包まれた山川に浮かぶ。その静謐な光がイルミネーションのように浮かび上がっては消えていく景色は、そう、幻想的というよりも、幽玄という言葉がしっくりくるように思えた。人が作り出した幻想ではなく、奥深い自然の幽玄さ。静かに、地上で瞬き、浮かび上がっては消えていく蛍の光。こんな光景があるのだなと、素直に感動していた。

 人が作り出す光は刺激的だ。蛍が見える沢の場所は山中の幹線道路からは歩いて数分かかるところにあるが、それでも車の光は届く。遠くを照らすオーバーライトが、おそらく1km前後の距離を超えて、ほんの微かにだが景色を照らす。それは照らすという程強烈なものではなく、実際車のヘッドライトが届いたからといって景色が見えるようになるわけでもないのだが、ただ"光が届いている"というのはわかる。そして確かに、車のヘッドライトが届いている間はその光に蛍の光は打ち消され、ぼやけてかすんで見えてしまう。携帯やデジカメのフラッシュも同様だ。景色を照らせる程強い光ではない。だが、蛍の光は打ち消してしまう。正直、邪魔だと思った。車のライトはある程度仕方ないにしても、どんなに頑張って携帯やデジカメでこの景色を撮ってみたところで、こんな人の作り上げた光に比べると弱々しくすら感じる程の光がきれいに写るわけはないし、ある程度写ったところで所詮本物には敵わないに決まっている。それなのに、どうして今実際にこの目で見て体感している感動を嘘くさいフラッシュで希釈してまで外部記憶になど残そうとするのだろう。それが不思議でならなかった。少し考えて、わからないのかもしれないなと思った。そして、少しかわいそうになった。これはおそらくモラルの問題以前に感性の問題だ。わからないんだろう、と。まぁでも、とりあえず外部記録に残そうとする程度には蛍の光に心動かされる感性はまだ残っているのだろう。まだ、マシなのかもしれない。

 帰り道、車の近くまで来た時に、手の届く草むらの中に群れからはぐれてしまった蛍が光っていた。つかまえて、両手を組んでかごのようにした中で少しの間観察してみる。蛍の光は遠くから見ると青白い星の光のように見えるが、近くでは黄緑色の発光ダイオードのようにも見える。掌の上で黄緑色の星がふうっと光っては消え、光っては消える。やはり、熱くはない。不思議な感じがした。草むらに放した蛍は、見ている間に最後もう一度光った。なるほど、地上に星があったら、こんな感じなのかもしれない。そう思った。

Trackback on "蛍"

このエントリーのトラックバックURL: 

"蛍"へのトラックバックはまだありません。

Comment on "蛍"

"蛍"へのコメントはまだありません。