2004年01月05日(月曜日)

絶筆の傑作『フーガの技法』

 完成を夢見ずにいられない絶筆の傑作は、この世の中にやはりいくつかはあるものです。今聴いていたバッハの『フーガの技法』しかり、モーツァルトの『レクイエム』しかり、手塚治虫の『ルードウィヒ・B』しかり。特に『フーガの技法』は自筆譜が組曲の終曲の非常にいいところで終わっています。

 バッハは組曲の終曲以前の曲までで3声までのフーガをあらゆる形で展開してきていて、絶筆に終わった終曲4声のフーガではこれまでの全曲の主要主題が導入され、さらに終曲の自筆で残っている部分までで既に提示されている終曲自体の3つの自由主題(これらの主題の一つがBACHの音列で始まっているというのは有名な話)をも組み合わせ、この『フーガの技法』という対位法のあらゆる可能性に挑む組曲の締めとするつもりだったといいます。ところが、現存するのは3つの自由主題が提示され、これから楽曲が展開していこうとするところまで。

 バッハの目論んだ「全曲の主要主題の導入と結合」という試みは理論的に可能だということが証明され(『フーガの技法』は組曲全体を通しニ短調で構成されているので調性も問題にならない)、実際に終曲の4声のフーガを補完した校定版も出てはいます。が、所詮それはバッハ以外の人間が想像で作ったものに他なりません。例えどんなによくできていたとしても、「もしバッハがこの曲を完成させていたら」という思いにはそれは応えてくれません。非常に歯がゆいですし、悲しい気持ちにすらなります。『フーガの技法』を聴いているといつも、終曲が盛り上がってきて「さぁこれから」、という時に突然他の声部が消え、たった1つ残った声部が悲しそうに1小節余韻を奏でて突然曲が終わるのです。もちろんちゃんとした終止なんかじゃありません。次の旋律を期待させる、そんな誘導的な音列の途中でふっと音楽が途絶えるのです。文字通り楽しみに追いかけていた物語の結末だけを見逃したような、そんな気持ちになるのです。見届けられなかった結末は、いつまでも哀しみとともに尾を引いて心の中に残る。『フーガの技法』が絶筆に終わっているのは非常に残念なことではあるのですが、私がこの曲に対して強い思い入れを抱くのは、むしろそんな欠落感からきているのかもしれません。最後まで見届けられなかった物語を、今度こそ見取ってやろうと何度も追いかける、そんな気分なのでしょうか。

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