2002年09月05日(木曜日)

コミュニケーションツールとしてのコンピュータ

 コミュニケーションツールとしてのコンピュータは、時間と空間の概念を限りなく圧縮してしまうことでコミュニケーションの範囲を拡大することに関しては未だ底知れない可能性を秘めている。が、それと同時にコミュニケーションツールとしてのコンピュータの限界もまた少しずつ見え始めている。

 ひとつには基本的にコンピュータは「冷たいコミュニケーション」しかとれないということが挙げられる。コミュニケーションのモーダリティとしてよく挙げられる視覚や聴覚、運動神経、距離、リアルタイム性や相互作用性、それらの条件がうまく機能しなくなるためだ。高画質なビデオ会議では、実際面と向かうのと比べてもほとんど視覚情報や聴覚情報他の欠落はないにも関わらず、コミュニケーションの効率は著しく低下するという実験結果もある。それがチャットや電子メールになると、視覚や聴覚によるリアルタイムなコミュニケーション情報は皆無になる。表情や筋肉の動きやアクションによる相互作用や、それらによる文脈の強調効果がなくなるばかりか、声の抑揚やテンポといった情報も失われていく。そしてコミュニケーションの粒度は粗くなる。そしてそれがそのチャットや電子メールでのコミュニケーションの場でだけ効率が悪くなるのならまだよいが、コンピュータでのコミュニケーションの比率が多くなってくると今度は現実に面と向かい合った時に、普段コンピュータにない表情やら声色やらの情報を処理することができなくなってくる。何か最近、そんな人が増えてきているような気もするが・・・。

 少し話は変わって、コンピュータでシステムを作ろうとする場合、特に最近はナレッジマネジメントなどが流行りとなりつつあるが、何よりも致命的なのがコンテキストの欠除である。我々は誰かと面と向かって話す時、明確に意識はしていなくても「この相手にならこういう言い回しで通じる」という、相手と自分が共有するコンテキストを意識してコミュニケーションを行っている。例えば私がクラギタの人間と話していて、頭が禿げてきたらとかいう話題で盛り上がっていたとして、「ブリームは嫌だなぁ」という。きっとそこで話しているクラギタの人間には通じるだろう。が、同じことを同じ文脈で会社の人間に言ってみても通じないだろう。コミュニケーションの不可能性は、相手にメッセージを伝えることはできないという事実に基づく。メッセージは伝わるのでなく、受け手が自分のコンテキストの中で解釈しているだけなのだ。同じ会話の流れで同じ言葉を口にしても、常に相手に伝わるとは限らない。そのコンテキストを、不特定多数のコンピュータネットワークの中でどう形成していくのか。コンテキストなしでただ知識だけをマネジメントし、創造していくことができるのだろうか。ってゆーか、今それを作れと言われてるんだよ、わしゃ!ああもう、どないせーゆーねん!? ってゆーか日付け変わる前に家帰らせろ!

 きよが日記でコンピュータコミュニティ(?)について書いていたのを見て職業柄思うところも多く、少しだけ書いてみました。そう、笑いあってこその職場だし教育現場だよ、きよ。わしゃあもう疲れたけん、あんたぁ頑張っておくんなせぇ・・・。

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