2000年05月10日(水曜日)

小説におけるイメージの効力 - 映画『クロスファイア』を観て感じたこと

 最近(いや、本当は別に最近に限ったことでもないのかもしれないけれど)小説から映画になる話が多いですね。今やっているところなら『グリーンマイル』とか、ちょっと前なら『ISOLA』とか『黒い家』とか、『リング』もそうなんでしたっけね?しかし、小説から映画化された話の中には明らかに映像にするのには向かないものもいくつか見受けられます。そしてその路線はどうやらちょっぴり流行りもしているようですね。今宮部みゆきの『クロスファイア』を読んでいます。映画が六月に公開されるのだそうですが、これはどうでしょうね?小説ではいける物語設定ですが、映画の、それもアニメならまだしも実写の映画にするにはかなり厳しいんじゃないでしょうか。

 『クロスファイア』の主人公は「パイロキネシス」という、念能力だけで人を骨まで燃やし尽くしてしまう程の炎を発生させることができる超能力の一種を持っていて、その力をもって己の正義を遂行していきます。この念能力だけで、ってのがくせものなのです。小説の場合は念能力を行使する際の主人公の心情の変化やら念能力のため方、飛び方等が言葉で表現されており、読み手はその言葉からイメージを具体化させることができます。ところが映像の場合はどうでしょう。主人公が相手を睨む、相手が燃え上がる・・・。わけがわかりません。元々目に見えないものであるだけに、映像化した場合の方が情報量として少なく、かえってイメージがつかめないのです。そのイメージをSFXとして具現化した場合などさらに酷い。我々の脳が通常認知している世界にない映像としてしか処理できないものだから、実に現実感、リアリティですね、が希薄になり、ただの安っぽい映像になる。それでも映像だけで楽しめる程SFX処理が大層なものならまだそれはそれで楽しめるけど、念能力みたいに元が目に見えないものが相手だとSFXにも限界があるし、大層にすればする程安っぽくなり現実感が薄れる。結果作品全体の力も希薄になり、つまらん映画ができ上がる、とそういうわけです。『ISOLA』なんて典型ですね。これは多重人格の少女とエンパス能力(簡単な読心術と思ってください。ちょっと違うけど)を持った主人公を扱った話なのですが、小説の方は名作と呼んでもいい素晴らしいものなのに、映画の方はというともはや少女が多重人格であることすら小説を読んでいないとわからないかもしれないくらい多重人格の表現が危うかった上に、エンパスもなんやわけわからん。多重人格もエンパスも死に伏線となりかねない上にわかりにくく、映像作品としてこれ以上ない失敗作に上がっていました。原作の作家貴志祐介氏にちょいと同情もしたくらいに。

 ではそれが何故小説だとうまく機能するのでしょうか。一つには目に見えないものでも言語で表現できるので情報量が多くなりイメージがつかみやすいというものがありますが、何よりも人間の脳は自発的なイメ−ジ化においては凄まじい力を発揮するということがあります。本当によい小説のよい場面なら、読んでいてそのシーンの映像が小説の文字と並行してイメージとして心に浮かんできます。比喩ではなく確かに映像としてです。あたかもテレビのスクリーンで眺めているように、小説の場面の映像が浮かんでくるのです。そういった経験はないでしょうか。私の場合、初めての土地で「この景色どっかで見たなぁ」と思い、どこで見たのか記憶の糸を手繰っていったらその景色はある小説を読んだ時にその中の一場面として私がイメージしていた映像とよく似たものだったということに気付いたという経験すらあります。このように自分が作りあげたイメージというものは実際の現実と対等に渡り合えるだけのリアリティを持ち得るのです。我々がものを見るということも、脳が処理をして映像を映像として作り上げてみせているわけで、その意味で光という映像情報と、文字情報から想像力で作り上げられる映像と、両方映像として完成させるのはどの道同じ自分の脳なわけで、その意味では一緒なのだと思います。それが映画だともはや完成された映像を見せられていて、その処理には光情報を映像に直すだけで、現実的でないものも単純に映像として処理するしかない。ところが、文字情報からイメージを汲み上げて映像になる場合は、それは過程としてひとつの現実として作られるわけですから本当の現実と同じだけのリアリティを持ちえるのです。SFX等の映像は現実的でない映像の情報を現実的でない映像として目に見せるだけなので現実感が希薄になる。ところが小説は現実的でなく、映像でもない文字情報から映像、イメージを現実のものとして組み上げるわけですから。ですからいわゆる超能力とか多重人格とか、そういったオカルト的なものは案外映像化するより小説にしておいた方が力があるんじゃないかなぁと思ってみたりもします。

 とはいえ、小説からイメージを組むのにはやっぱり多少の慣れが要るんでしょうけど。その人の才能とか適性じゃないとは思うんですけどね。要は右脳の働きですから、イメ−ジ化って。それを活性化させられれば誰でもいけるとは思うんですけどね。

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