1996年12月18日

孤独のジングルヘル

 今年もこの季節がやってきた。街は華やかな飾りに彩られ、恋人達を祝福し、独り身の風をさらに冷たくするクリスマスソングが流れる。はしゃぐ子供達、幸せそうなカップル達。何で自分はこんな日に街を一人で歩いているんだろう。別にこれといって急ぎの用事もないというのに。こんな日に一人で街に出れば独り身の寂しさを嫌というほど味わう羽目になるのは分かり切っていたことなのに。大体なんでハロウィンは大して気にもせず、祝いもしない日本人がクリスマスのときだけこぞってキリスト教に帰依するんだ。いや、仏教も神道もいつもは別に信仰している素振りも見せないのに、夏、お盆になるとみんなまって休みを取り、何だか知らないがその日だけご先祖さまに手を合わせてみたり、お墓参りに行ったりする。まったく我ながら日本人という民族は理解不能だ。

 そんな事を愚痴ってみても仕方がない。いくらこの場で僕が自分の頭の中だけで痛烈に日本人批判をしてみたところで、今日がクリスマス・イヴで僕はそんな日に一緒に歩く恋人もなく一人で街を彷徨っている、という現実が消えることはない。

 雪が静かに降り始めた。いつの間にか日も暮れて、色とりどりのイルミネーションをまとった街路樹や建物達の間をちらちらとロマンチックに聖夜を演出している。こんなに綺麗なクリスマスは何年ぶりだろう。そういえば去年はこんな僕の横で笑ってくれる女がいたっけ…。そんな事を思い出すと、なおさら冷たい風が吹く。僕は考えるのを止めて何処へともなく歩き続けた。すれちがうカップルを横目で見ながら。

 そうして一体どのくらい歩いたのだろう。気が付くと僕は大きなデパートの自動ドアの前に立っていた。道路にはうっすらと白い雪が積もっている。心なしかカップル達の足取りがこの通りでは早い気がする。こんなに綺麗な道なのに。うっすらと積もった白い雪に所々赤い水溜まりが…、って、赤!? 何故?僕のその疑問は次の瞬間に解決した。騒がしいクリスマス色に染まった街を一気に切り裂くような鋭い声が響いたのだ。

「天誅ー!!!」

 その男は雪も降っているというのに黒のタンクトップに白いトレパンという出で立ちで、両手にボクシング・グローブをはめて、道行くカップルに必殺の天誅パンチを(男のみに)炸裂させていた。

「てめーら神も信じてねーのにクリスマスだなんだとうかれ騒ぐなど言語道断!オラ! おまえにこのキリスト像が踏めるか!? 踏めねーのか、コラ!!!」

 天誅男は自らのセリフが抱えた大いなる自己矛盾に気付く気配もなく、ひたすら額に血管浮かべては訳の分からないことをまくしたてている。完全にイッてらっしゃる。とうとう倒れたカップル(男)にストンピングをかましながら説教を始めた。ヤバイ。あいつはヤバイ。そう感じた僕は「無関係ですよ」というのをひたすら強調しつつ、すたこらさっさとその場を離れる決心をした。と、そのときだ。

「…おまえ、一人か?」

「!!」

 しまったぁ〜!! 目が、目が合ったあぁぁ〜!!! 天誅男は顔に薄笑みを浮かべながら、ズザッ、ズザッ、とこっちに近寄ってくる。…ダメだ。体が動かない。助けを呼ぼうとしても声すら出ない。蛇に睨まれたカエルとはこのような心境なんだろうか。そんなことを思いつつ、もう一度そっと彼の目を覗き込む。ひいぃぃ〜っ!! やっぱり、やっぱりイッてらっしゃるぅ〜!!僕はこのとき一度死を覚悟した。…お父さん、お母さん、これまでどうもありがとう、って何で別に感謝もしたくない奴らに真っ先に別れを告げなあかんのだ。…あぁ、恭子か。ごめんな。あんな事になってしまって…。これまでの僕の人生が走馬燈のように頭の中でプレイバックされる…。うっ、そこはいいっ!! そんな場面はプレイバックすんな! ひいっ! あんな場面まで!何てことだ。いい場面より恥ずかしい場面や、二度と思い出したくもないような場面ばかり強調されて映像化される。人生とは終わる直前にまでその厳しさを自分に教えてくれるものらしい。いよいよ奴が近付いてきた。もう十分に僕は彼のリーチの中にいる。彼の右手が動き、僕の方に向かって伸びてくる。あぁ、こんな日に外出なんてしなけりゃよかった。神様、あなたは無情だ。

「…それが正しい姿だ。強く生きろよ。」

 僕の目の前まで伸びていた彼の右手は、僕をヒットすることなく、左肩をポンと叩いて通り過ぎていった。目はやっぱりイッてらっしゃったが、僕にあの一言だけを告げて、彼は「目標をセンターに入れてスイッチ」して次のカップルを殺りに行ってしまった。

 どうやら僕は生き延びたみたいだ。そう思うとふっと力が抜けて、僕はその場に座り込んでしまった。数メートル先にはさっきのカップルが殺られたときの血が新雪に滲んで道を赤く染めている。それを見ていると、なんだかあのカップルは処刑されて当然だったんだというような気がしてくる。…遠くから彼の声が聞こえる。

「“幸せカップル”なんてモンはこの世に存在してはいけないんだぁ!」

 それは逆恨みだろう、と思いつつも心のどこかで我々独り者の気持ちの代弁者として活躍している彼を応援している自分がいる。そうだ。幸せカップルなんてモンはこの世に存在してはいけないんだ。

 …と僕がそう思った瞬間、雷でも落ちたかのような振動と重低音が辺りに鳴り響いた。空気を引き裂く振動が、耳をつんざく轟音が、すべてを押し潰さんばかりにのしかかってきているのに、僕以外の人はみんな何もないかのように笑いながら道を歩いていく。何なんだ、一体僕はどうなってしまったんだ!?見ると、地鳴りで震えている道路の新雪の上に、不気味な青白い炎のような光が円を描いている。そしてその内部から唸り声とも悲鳴ともつかないおどろおどろしい声が聞こえてくる。青白い光は円の内側にも次々と浮かんできてそれらは意味不明の紋様や記号のようなもの、そして大きな図形を作り出した。聞こえてくる声はどんどん大きく、はっきりとしてきた。この世のものとは思えない物凄い異臭が辺りを包む。何が起こっているんだ!? 僕はまたも動けなかった。僕は状況の把握も満足にできないまま、ただその円と中に描かれた紋様に見入っていた。すると…、Oh!! Jesus!! 何てこったい!その紋様の内側から、何もないはずの地面から、何もないはずの地面からぁっ、何か、何かとってもSFXな処理が施されていそうなグロくてヤバイ牙みたいな爪とか付いたお手てがあぁぁっ!!! うっひゃあーっ!!!! 僕は何度もその物体について自分が出した結論を否定したさ。そんなことはあるわけはない、そんなことがあっていいはずはない、と。しかしその円の中から姿を現してくるその異形な姿はやはりどう考えても…、悪魔…。

「…貴様か? 我を暗黒の底より召喚せしは…。」

 目の前には一人(一匹?)しか姿が見えていないのに、まるで何十人も同時に喋っているかのような複数の声がする。不気味な、低い、輪郭ははっきりしないのに何故かよく聞き取れる奇妙な声だ。まるで耳で聞いているのではないみたいだ。これが、…悪魔…。

「…答えよ。生け贄を捧げ、邪悪なる念によって我をこの人間界に召喚せしは貴様か?」

 悪魔が再び問う。僕はすぐにでも逃げ出したかった。

「い、い、いいいい、いえ、僕じゃ、僕じゃありません、僕じゃ。」

 そう言いながらも僕は何歩か後ろへ後ずさっていた。

「…ほう。だが貴様には我の姿が見えているではないか。我の姿は普通の人間どもには見えない筈だぞ。」

「い、いえ、きっとたまたま普通じゃないだけっすよ。どうかお気になさらずに。他に、他に召喚者がいる筈ですから。それではわた、私めはこれで。悪魔様には御機嫌うるわしゅう…。」

 僕はそう言ってそそくさと後ろを向いた、…のだが、

「…まぁ待つがよい。」

 ひいっ! どうかお引き止めにならないで。

「え? あ、な、何でしょう?」

「貴様もせっかく我と出会うことができたんだ。本当なら生け贄もそこの生き血だけでは不十分だし、召喚者以外に我を見た者は八つ裂きにしてくれるところだが…、喜ぶがいいぞ、人間。今日の我は非常に機嫌がいい。特別にぬしの願いを聞き入れてやろうじゃないか。」

「あ、そんな気を使っていただかなくて、け、結構ですよ。どうかお構いなしに。」

「ぬう? 人間…、貴様、我の姿を見て何の契約もなしに生きて帰れると思っているのか? 悪魔はそれ程甘くはないぞ…。我々には一度召喚された以上、契約か魂かを魔界に持ち帰らなければならないという掟があるのだぞ…。」

 僕は身から血の気が引いていくのを感じた。そんな…、契約したってどっちみち最後には魂を奪われるんじゃないか。何て日だ。どうして僕ばかりこんな目に…。僕は死の覚悟をした。本日二度目だ。再びこれまでの人生が脳裏にフラッシュバックされる…。…恭子、楽しかったなぁ、あの頃は。未練がましいと思われるかもしれないけど、最後にもう一度おまえに会いたかったよ。…えっ? 惠? すっ、すまない!! ほら、あの時は俺もおまえも酔っ払ってたし…、いや、決してそういうつもりじゃ…、すまない、すまない…。


 二度目の場面でも嫌なものは嫌だ。どうして人生ってヤツはこんなに僕らに対して嫌がらせばかりするんだろう。不幸は幸福の2倍ある、…か。果たして2倍できくのかねぇ…。

「さあ、人間。望みを言え。それともおとなしく我にその魂を捧げるか?」

「の、望みなんて突然言われても…。少し、少し待って頂けませんか?」

「ならぬ!!!」

 ひいいぃっ!! 僕はパニックになりそうだった。そんな、そんな…。僕は頭を抱えてその場に蹲った。

〜通りすがりのカップルの視点〜

「ねえ、あそこの彼、さっきから何一人でぶつぶつ言ったり叫んだりしてんだろ?」

「気違いだろ。クリスマスに女にでもフられたんじゃないのか。ほっとけ 、ほっとけ。いずれ警察がなんとかするだろ。そんなことよりせっかくの夜を楽しもうぜ。」

「…そうね。こんなに綺麗な夜なんだものね。」

〜純朴な子供と勘違いな母親の視点〜

「ねぇ、ママぁ。あそこのおにーちゃんさっきから何やってるの?」

「あぁ、あの人はね、大道芸人といって、わざとあんな普通じゃない事をやってみんなを笑わそうとしているのよ。」

「でも誰も笑ってないよ。」

「そうねぇ…。あれじゃあまりにお粗末な芸だものねぇ。たっくんはあんな落ちぶれた人間になっちゃいけませんよ。」

「何? オチブレタって。」

〜僕の視点〜

「さあ、願いを言え。言わぬなら、今日は特別大サービスでこっちで決めてやってもいいぞ。」

 随分と悪魔もモダンになったものだ。特別大サービスできたか。しかしサービスになってない。

「ふむ、そういえば、ついさっきこの近くにとても人間とは思えない殺気を放っている男がいたな…。“天誅”と叫びながらどちらかというと我々悪魔に近いような…。」

 天誅男だ。あいつが残した犠牲者の血溜まりのために僕は今こんな目に…。あいつと出会ったことがそもそもの不幸の始まりだったんだ。

「…何が“幸せカップルなんてもんはこの世に存在してはいけない”だ。」

 僕は思わずそう呟いた。

「…ほう。それが貴様の願いか。」

「…え?」

「つまりあの天誅男と同じ力が自分にもほしい、とそういうことだな。…ふむ。よかろう。その力を貴様に与えてやろう。」

 え? え? 見るとすでに悪魔の両手が怪しく光って、大きな黒いガスの塊のようなものが作り出されている。

「さあ、人間、願いを叶えてやろう! これが貴様の望んだ力だぁ!!」

 悪魔の両腕が振り下ろされ、黒いガスの塊が物凄い勢いで僕を襲い、あっという間に体全体を包み込んだ。…違う。僕はこんな事望んじゃいない。僕はこんな事、僕は、僕は、僕は…、

「ちがーう!!!!」

 そう叫んで僕は目が覚めた。見ると、降り積もったばかりの新雪の上に 、自分がうつぶせになって倒れているのが判った。…夢? でもそれじゃあ何で僕はこんな道端で寝ているんだ? ああ、そうか。一人で公園で飲んだビールが回って…。僕はそんなことを考えながらゆっくりと立ち上がった。体は相当冷えているが、他に異常はどこにもない。…よかった。あれは夢だったんだ。

 しかし、夢は覚めても数年来の素晴らしいクリスマス・イヴに夜の街を一人で彷徨っているという現実は残っている。雪はまだちらちらと空から降ってきている。それがまた一層僕の心を虚しくする。

「…一人、…か。」

 僕はそう呟くと、くるりと右を向いて駅の方へ向かって歩き始めた。前から僕と同じくらいの年の楽しそうなカップルが歩いてくる。僕は少し羨ましく思いながらその二人とすれ違って歩き去ろうとした。そのまま歩き去る筈だった。ところが…、

ゴッ!!

 僕がそのカップルとすれ違った瞬間、物凄い鈍い音がして、それに続いてすぐドサッ、と人が倒れる音が聞こえた。僕は立ち止まって後ろを見る。今すれ違ったカップルの、男の方が顔から血を流して道路に蹲っている。それを抱きかかえるようにして、女がしばらく彼を心配そうに眺めて声をかけたりしている。ふっと顔を上げた女と目があった。物凄い目付きで僕を睨み付けている。何やら僕の周りに人が集まってきた。

「また出たのか!? 天誅男が?」

「いや、今度は新しい奴らしいぞ。」

「関係ない。今度こそつかまえるぞ!! ひょっとすると仲間かも知れん。」

 みんな金属バットとかフライパンとか持ってたりしてとても物騒だ。それにしてもどうしてみんな僕の方を見ているんだろう…。

 僕は何気なく上げた左手の拳を見て一瞬動きが止まった。そこには何か赤い液状のものがベットリとくっついていた。僕は、……僕が?

「…え?」

『クリスマス 一人歩きはやめましょう』

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